アクロージュファニチャー

⑤「海外を見て回る」超真剣な普通/岸邦明

2018年1月14日

5年目、売り上げが少し下がります。

空気清浄機の販売代理店は全国に百単位ありました。

数年間で百万台が販売されるヒット商品になっていたのですが、商品が行き渡り、類似品も出回り、価格も乱れ、メーカー自身の売上は鈍化している気配です。

商品にもライフサイクルがあります。ひとつの家電品がロングヒット商品になることは不可能に近い訳です。

メーカーは新商品を開発できず、家電大手との提携話も断ったとの噂を聞きます。

潮時か…

幸い父と母に当面生活できるだけの貯金を用意することができました。

私も一部をいただき、貯金は1000万円に達しました。

28歳で1000万円。この年齢で自力で、誰もが手にできる金額ではありません。

これで次に行こう!

販売店を整理し、両親だけでできるようにした上で、手を引きました。

 

「家具工房を生業にする」

どうしていくものなのだろうか。すぐにできる段階のものではないので、今深く考えても仕方がない…

「家具を作ることはできるだろうな」

不思議と作れるイメージはしっかりありました。

「始めてからの道のりは長いんだろうな」

長い長い技術の習得の日々が続くことは想像に難くないですね。

「この歳から始めて、生き残れるようになるものだろうか」

何か他の人が持っていないものを手にしてから、その道に入るべきでは。

 

こんなことを数週間毎日考えた末に出した答えは、専門学校等に行くのではなく、海外を見て回るでした。

今ほど北欧はメジャーではありませんでしたが、家具はヨーロッパから入ってきたものが基本にありました。

日本の文化はアメリカから入ってきたものに強く影響を受けています。

日本に入る前の現地の文化を見ておこう。

建築物・美術館・博物館・百貨店・スーパーマーケットなどなど、

家具をデザインする上で、ものづくりをする上で、ヒントとなるものがそこにはあるはずだ!

月並みな発想かも知れませんが、実際のところ、そのチャンスを得られる人は、それほど多くいないはずです。

 

「1年以上掛けて回ろう!」

「そんなチャンスは人生そんなに多くない」

「やるなら他の人ができないレベルでしっかりやるべきだ」

そう考え続け、導き出したのが「キャンピングカーで回る」でした。

今のように、携帯やネットが普及していなかった時代、知識を得るのは書籍が中心でした。

「色々な書物を持って、学びながら回りたい」

バックパッカーでは限界があります。

陸路で文化圏の変化を肌身で感じながら、長期に渡る旅の中で、ストレスなく回り続ける手段として、キャンピングカーは最適でした。

 

さて、どうするか。

キャンピングカーだけでも数百万はします。消費だけしていたら1000万円は案外簡単に無くなってしまいます。

下手な中古で、途中で止まったらお手上げだ。そもそも陸路でどんどん回れるものなのだろうか。関税は?

全て一から調べ始め、企画を考えていきます。

 

調べ取材していく中で、「日本製のキャンピングカーが海外に出たことはない」ということを知ります。

国境はカルネと言う非課税証明書をJAFで発行してもらって持っていけば、関税を払わずに通過できることが分かりました。

免許証も国際運転免許証一枚で全ての先進国は通用することを確認します。

行けるはずだ…

キャンピングカーの専門雑誌が当時一誌(月間オートキャンパー)ありました。

そこに「国産キャンパー世界を回る!」の企画を持っていきました。

「紀行文を書かせてくれませんか!」

「毎月4ページ、用意するよ」

「ありがとうございます!」

その勢いで、「地球の歩き方」等の旅情報誌にも紀行文契約を結びます。

「これで、生活費は稼げるな」

この条件を持って、本丸に臨みます。

「キャンピングカーを貸してください!」

この雑誌に広告を出すのに、各メーカー数十万単位で広告費を出していました。

「私は毎月4ページ出ます。必ず良い写真を撮って、お役に立ちます!」

勢いのままとは行かず…

「今どき他人のふんどしで相撲を取ろうなんて無理じゃないの」と追い払われる日々。

関東地方のメーカーには全て断られ、関西地区にまで交渉し始めます。

大阪のキャンピングカーメーカーの一社(アネックス・田中社長)が手を差し伸べてくれました。

「何か国回るの?」

「20ヵ国以上です」

「どのくらい行くの?」

「1年半予定です」

「何キロ走るの?」

「7万キロくらいは走ります」

「自分のところの車が海外を一周するなんて夢があるね!」

ご協力いただけることになりました。

「よし!行けるんだ~」

車自体はトヨタのカムロードでした。

アネックスを通してトヨタに連絡し、技術者と車の走行に関する情報提供契約を結びます。

その代わり世界中のトヨタの工場で見てもらえるようにしました。

ここまで来て最後の不安は、安全に海運してもらう方法でした。

トヨタ経由で日本郵船を紹介してもらい、コンテナ船でドイツに運んでもらえるようにしました。

準備は整いました。

 

1999年から2001年、29歳~31歳を海外で過ごします。

 

 

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