アクロージュファニチャー

⑩私の家具の師匠になってくださった 森戸雅之師匠/岸邦明

2018年1月16日

こうして私は、家具制作の職業訓練校に通い、十数名の講師陣から日々家具について学びながらも、老舗の大工道具店「井上刃物店」で大工道具の世界を学び、大工の中の大工と言われた大工職人「多賀捷躬師匠」から木工という生き方を学んでいました。

会社員を1年も経験して来なかった私は、人から何かを教わるということはほとんどないまま、33歳まで来ていました。

まさにスポンジのように色々なことを吸収していったのだと思います。

 

私は家具工房を生業にすることを目指し、日々学んでいましたが、

訓練校を卒業した後は、すぐに工房を構えるつもりで、週末は場所探しもしていました。

しかし、こうしたプロ中のプロの人々に接し、木工という生き方を知るにつれ、いかに自分の力で木工をやり続けることが難しいものなのかを、嫌というほど知ることにもなります。

 

とは言え、この年齢になって就職することも簡単ではありません。

そして私が取り組みたい無垢の置き家具を制作する技術をしっかり学べながらも、生活できるだけの収入が得られる木工所や工房は、思い浮かばない状況でした。

3月になり、卒業が近づいてきた段階でも、私はどうすべきか決めらずにいました。

訓練校に行く前、私は木工のことを全く知りませんでした。

それが1年まさに必死に学んだ結果、知らないことを知ることができるようにはなっていました。

「どのようにデザインを考え、かたちを発想し、実物にしていくのか、場数が足りていない」

「どこまで作り込めば、どこまで頑丈に作れば、しっかりと末永く使える家具になるのか」

「樹種によって、かたちによって、仕口が変わってくるはずだが、自分の中に明確な基準がまだしっかりとできていない」

「こんな状況で、お客様からお金をいただきながら、家具を作り納めて良いはずはない」

色々と現実の木工を学んできた結果、私はものを生み出す怖さを、正しく理解できるようになっていました。

「独立はできない」いや「独立すべきでない」

この自分に足りていないものをしっかりと学べるところがあるとすれば、

それは妥協することなく日々家具制作に取り組みながらも、

長きに渡り作り続けている家具職人でなくてはなりません。

お客様と打ち合わせしながら、理に叶ったかたちを決め、そのかたちに適した材を用意し、制作しては納め、長きに渡り、決してクレームになることもなく、潰れることもなく営み続ける。

それを出来る限り妥協することなく行っていくとなると、当てはまる家具職人は限りなく少なくなります。

私の中に浮かんだ唯一の家具職人。

 

それが二人目の人生を変える出会い。

家具職人「森戸雅之師匠」。私の家具の師匠となってくれた方です。

 

井上刃物店に通い始めていた頃に話は戻ります。

老舗大工道具店には多くの木工家、愛好家が日々集まっていましたが、世間話と言うものは、基本的にマイナス面を言うことが多いものです。

しかしここに集まる誰もが、森戸雅之師に対してはマイナスのことを言わないのです。

歯に衣着せぬ江戸っ子の井上さんに至っても、

「森戸さんほどきれいな家具を作れる人は他にいないな」

日本中の家具工房を営む工房主を知っていると言っても過言ではない井上さんが家具職というの範囲の中で、唯一その能力を認めている方でした。

「この井上さんにダメだしされない家具職人って、何者なのだろうか」

まだ見ぬ森戸雅之師への興味は膨れ上がりました。

 

秋口、森戸雅之師が新木場に木材を探しに来ることを知りました。

訓練校を初めて休み、会いに行きます。

私は挨拶しましたが、少々素気ない印象の返事がありました。

これまで会ってきた多くの木工家の中で、最も朴訥とした雰囲気で、謎めいた印象の方でした。半日、付かず離れず付いていき別れました。

「頑張ってね」とは言われたのですが、社交辞令の印象は拭えません。

人見知りはあまりしない私ですが、

「この人にはどう声を掛ければよいのだろうか」

「どんな質問をしたら、この人は興味を持って答えてくれるのだろうか」

そう自問自答させられてしまう方でした。

 

栃木県鹿沼市に森戸雅之師は工房を構えていました。

後日、工房を見学させていただきました。

個人工房を営んでいる訳ですが、広い敷地に大きな工房を構えています。

一角にはショールームもあり、作品が並べてあります。

「スタンドキャビネット」と呼ばれる脚の長いキャビネットなどが並びます。

それらは、これまでの私の知識の外となる家具であり、木工品であり、工芸品でした。

日本では、家具と言うと椅子が良く取り上げられますが、欧米ではキャビネットが重要になるそうです。

森戸師は、そのキャビネットの分野での日本の第一人者として、長きに渡り活躍してきた日本中の主だった工房主の間では一目置かれている存在でした。

日本にも木工の分野での伝統工芸品があり、指物もあります。

森戸師は欧米のキャビネットと言う分野の中の工芸品を制作されています。

家具と言う分野で、今も工芸活動があり、こうした発展をしているのかと知ります。

 

私は数年前、ヨーロッパを回り、多岐にわたる家具を見ました。

教会、宮殿、博物館、歴史的建造物、そうしたものの中に当時からの家具が置かれていました。

手の込んだものは、尋常ではなく、何名という職人が何年も掛け作ったとされるキャビネットやデスクであったりします。

華美な装飾、技術や労働力の塊のような家具たち。

そうしたものを見飽きるくらいに見て回りました。

その工芸の世界はかたちを変え、現在のデザインが重要視される時代の中でも表現されていました。

シンプルな中にも僅かな曲線があり、遠近や目の錯覚、心のゆらぎまでも考えつくした上で、一本の線や材が決められている家具が、この時代にあることを知ります。

 

ただ、当時の私は森戸雅之師の作品を正しく理解できるだけの知識や経験がありませんでした。

欧米を2年掛け周る前、私は絵画や建築などは、写真や映像でしか知らず、良いと言われているものを、

「これがすごい絵なんだな~」

「これがすごい建物なんだな~」

と言うかたちで、知識として理解しているだけでした。

しかし、流石に2年間、毎日毎日、歴史的に逸品とされてきたものを見続けているうちに、自分自身の中に基準ができてきます。

 

時代や地域を加味した上での表現への理解。

あの時代に、この場所で、こうした表現をしていたなんて、それは凄い!革新的だ!

他の物にない独創性、説得力などなど。

しかし同時に、必ずそうした表現を生むきっかけとなるものが、少し前の時代に他の地域で生じていることも旅をし続ける中で目にします。

「あの絵のヒントはこれなのか」

「あの建物はこれをオマージュしているのか」

少し後の時代になれば、もっと良いものがあちこちで生まれたりもしています。

「この絵自体は凄いけど、評価は決して高くはない」

「あの絵の10年後に生まれている訳だからか」

それをヨーロッパ中の博物館や美術館、歴史的建造物を見て回るうちに実感します。

そうした実感の上で、改めて世の中で評価されているものを考えていくと、

「なるほど、そういうことなのか」と世の中の評価に納得させられます。

 

そうした経験がある私にとって、森戸雅之師の作品は、私が知る新しい表現でした。

日本中の有名所の大御所工房主たちが一目置き、あの井上さんが日本人一と評価する。

確かに美しく素晴らしい。でも当時の私は、それが日本屈指のレベルと断言することはできませんでした。

私は、自分自身がそれだけの知識や経験がないことを表していると考えました。

人としても少々謎めいた方で、その作品も私が正しく理解できていないレベルの家具という分野の工芸品。

今の私が正しく学ばなくてはならないものが、そこにあると考えました。

 

森戸雅之師は20年以上に渡り木工をやり続けていたベテランでしたが、今までお弟子を取ったことはなかったそうです。

そして先祖代々の広い農地はあれど、決して余裕のある工房生活という訳でもないと聞きます。

そんな森戸師が、たかが訓練校の卒業生をお弟子として受け入れてくれるのであろうか。

覚悟を決め、井上さんに相談します。

改めて紹介していただき、森戸師にお願いにいきました。

「ここで学ばせていただけませんでしょうか」

「もし足を引っ張ったり、創作活動の妨げになるようなことがあれば、言っていただいて構いません」

「もし私がいることで、プラスになることがあれば、その一部をお手当としていただければ、

そこはどんな形でも…」

森戸師がその時どんな気持ちでいたかは分かりません。それでも…

「まぁ、やってみないと分からないけど。それでもよければ…」

「それで十分です。お願いします!」

森戸師は、その時私の家具の師匠となってくれました。

私にとっての家具の師匠、「森戸雅之師匠」の誕生の瞬間でした。

 

訓練校の一年間、非常に多くの人に支えられ、木工と言う分野で生きていくためのチャンスをいただきました。

非常にありがたいことです。

人生において、そうした機会はそう何度もありません。

今こうして書きながら振り返ってみても、私にとって非常にありがたい時でした。

皆様、ありがとうございます!

自分の能力の限りではありますが、しっかり木工をやり続けます!

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