アクロージュファニチャー

④「家具工房という生業」を心に決める/岸邦明

2018年1月14日

4年目、借り入れを返し切りましたが、私の中では不安の方が大きかったのかも知れません。

地域の家電店はどこも苦しんでいました。

全国規模の家電卸も同じです。

苦しい時期だからこそ、私のようなものが持ってきたベンチャー企業の商品を販売してくれたのかも知れません。

20年前。まだネット販売などほとんどありませんでしたが、近い未来にそうなることは見えていました。

流通の激変はその頃も進んでいました。

「この仕事をいつまでも続けられる訳ではない」

全国にある家電卸の営業所で、同行セールスしながら、日本各地の雰囲気、地場の産業を見続けます。

 

再び「人生の岐路」に立たされます。

会社員に戻るのか……

学生時代の仲間は金融や商社など、各業種でトップクラスの企業に入り活躍し、よく集まっていました。

金もなかった私は参加することもできず、「岸は行方不明」との噂を聞いていました。

「今更会社に戻っても、彼らのように活躍することはきっとできないんだろうな…」

マイナスからゼロに戻ったに過ぎません。

私が今得ているものは、若干の営業や経営経験だけでした。

大企業がほしいと思える能力は何もありませんでした。

再び会社員になる自分を想像できずにいました。

 

自営を続ける。

ここまで来ると、これが自然な選択肢でした。

「さて何をするか」

自営業者として生きていきたいという気持ちは元々持ってもいました。

流通は難しい。となると、一般的には川上か川下か。

ここ数年、私の仕事は流通ではありましたが、商材探しは小売りも流通も同じです。

ひとつ大きくヒットすれば、それだけで利益を生むことを知りました。

ただその裏には、上手くいかなかった何十もの商材もありました。

商品ライフサイクルや競争がある中、安定して優良商品を扱い続けるのは難しいはずです。

自分の力や能力に関係なく、お客様にご迷惑を掛けてしまう可能性もあります。

 

川上か…

「ものづくり」

長きに渡り私に寄り添ってきていた「ものづくり」への憧れ。

その想いが、このときどんどん大きくなっていきます。

美大でも建築でも、工業でもない商学部の自分が今更どんな「ものづくり」ができるというのか。

27歳になっていました。

色々見ていく中で、木製品に目が行くようになりました。

かなり幅が広く、自由な表現が可能な世界に思えました。

家具屋を回り始め、気に入ったものを実際購入し、使い始めます。

曲げわっぱのような伝統工芸品も同じです。購入し使っていきます。

何に、より自分は惹かれるのか。

伝統工芸品は魅力的でした。

ただ、自由さが少し少ないように感じました。

その中で、私の中に芽生えてきたのが「家具工房」という存在でした。

自分で「デザイン」し、「製造販売」し、お客様が「消費」するのに一生のお付き合いをしていく。

新卒時に旅行会社を選んだ理由と同じなのです。

「人は簡単には変われない」「三つ子の魂百まで」とはよく言われます。

「真面目でつまらない男」はかたちこそ違えども、同じような生き方を考え始めます…

 

木製品は分かり易いのも大きな魅力でもありました。

私がこのときメインで扱っていた空気清浄機は、目に見えない空気が相手です。

モニター機を貸し出し、後日お客様の家に言った際「前より空気が澄んでいるように思いますよ」と言う訳です。

「子供の咳が納まりました。ありがとうございます。購入させてください!」

???本当なのだろうか???

メーカーが用意した試験データはあります。

ファンがなくてもタバコの煙を吸っていきます。

フィルターは真っ黒になります。

それでも、とても分かり難いものを販売すると言うのは精神的に疲れます。

 

自分の性分を見つめ直します。

小学生の頃、かなりの真面目な子供でした。

成績は全て3段階の一番上であるのが、普通でした。

その中でも、図工・美術が一番好きで、何度も学校代表になり得意だった記憶があります。

小学校の卒業アルバムの表紙を描いたのは私でした。

中学1年になるとき、私からするとちょっとした事件がありました。

練馬区立の中学校で、3つの小学校から集まったマンモス中学、1学年8クラス300人以上いました。

あいうえお順の出席簿でありながら、「きしくにあき」は1年1組1番でした。

「あ~か」までの生徒は1組には、いませんでした。

入学式などの式典の際、私が先頭で歩き、祝辞を述べるためなのだと思います。

代表して「新入生の挨拶」をすることになりました。

その露骨な期待。

いわゆる反抗期に入る私は、先生や学校との距離を取る生徒になっていきました…

 

都立高校に進みます。

反抗期も過ぎ、美術の授業も普通に取り組み始めます。

高1の文化祭のとき「この絵を売ってくれませんか」と言うお母さんが現れます。

「え!生徒の絵を買うの?」

学校の授業以外に全く絵の技術を学んだことはありませんが、何らかの良さが私の絵にはあったのかも知れません。

何度か頼まれましたが、まだ子供の私は断るしか術を知りませんでした

その絵はその後、美術室から消えてしまいました…

先生に言いましたが、「よく探しなさい!」と探してもくれませんでした。

今思うと、先生が教える通りに描かなかった私の絵たち。

素人なりにオリジナルのタッチで描いていました。

先生の態度はすこぶる冷たく、美術部の生徒ばかりに力を入れる先生が理解できず、1年でやめてしまいました。

そんな私が高校時代に力を入れたのは、身体を動かすテニスでした。

テニスができる顧問もいない自由な雰囲気の部活に私はのめり込んでいきました。

 

とは言え、自分の性分を考えたとき、「真面目」は、かなり根深い訳です。

そして「図工や美術が得意」も、かなり根本的な自分の資質だったのです。

そんな子供は「家具工房を生業にできる」のではないだろうか。

私は一気にその想いに向け、舵を切り始めます。

 

 

 

 

 

ページの先頭へ戻る